懐かしい映画 [思い出]
少し前にBS TBSで、「荒野の用心棒」の放送予定があり録画して観ました。
学生時代に見た映画だし、いやいや懐かしい。
クリントイーストウッドの出世作のマカロニウェスタン。
エンリオ・モリコーネの音楽もいい。
「七人の侍」のパクリでもいい。
学生時代、土曜は、古い名画の3本立て、オールナイト、
つまり、一晩中見てても、寝ていてもOk、
カネのない学生にはいいサービスでした。
ライフル銃を持つ相手数人を一人でやっつけてしまうなんて、
単なる殺し合いだし、どう考えてもおかしいが、カッコいい。
学生時代に見た映画のパンフレットは、捨てる前にスキャンしましたが、
その中に「夕陽のガンマン」がありました。
一緒にやっていたのは、「太陽が知っている」。
あの有名な「太陽がいっぱい」の後で出たアランドロンの映画の
ようですが、こちらは覚えていません。
そんな昔の映画のパンフレットを見ていたら、
「黒いオルフェ」がありました。
ストーリーはすっかり忘れてしまったのですが、物悲しい音楽と
サンバのリズムは今でも忘れていません。
アマゾンプライムビデオでは無料で見れるので、観てみました。
タイトルは、「ORFEU NEGRO」
字幕版なので、発音を聞いたが、オルフェとは聞こえない。
リオのカーニバルの時の物悲しい若者の恋が描かれています。
オルフェがつま弾く主題歌がいい。
MARGARITA [思い出]
古いものを処分していたら、40年くらい前に米国に出張した時の
パンフレットやらが出てきて、その中にメモがありました。
それはMARGARITAのつくり方。
飲み屋に行って一緒に飲んだのか、招待された家で飲んだのか
すっかり忘れてしまったのですが、たぶん飲んだあと、私が
「作り方を教えて」と聞いたら、書いてくれたものと思います。
テキーラと2/3のコアントロー(cointreau)にレモンジュース。
テキーラはともかく、コアントローなんて売っているのかわからない。
うちにはシェーカーもないし・・。
ということで、イオンに行って出来合いのMARGARITAを買ってきました。
さて飲もうかと思ったら、家にあったはずのカクテルグラスがない。
妻に捨てられた、ようだ・・。
あちこちの店を探しても見当たらず、近くのロフトには、シェイカーや
カクテルの計量カップまであったのに、カクテルグラスは売ってなかった。
結局、イオンの酒売り場に1個だけあるのを見つけ、即買ってきました。
そしてカクテルグラスのまわりに塩をつけて完成。
買ってきたMARGARITAが甘いのか、塩をなめながらでないと
飲めないが、40年前を想い出し、久しぶりのMARGARITAでした。
雨の日と月曜日は [思い出]
今日は雨降りの月曜日ですが、
50年くらい前に、カーペンターズの「雨の日と月曜日は」
という曲が流行ったことを想い出しました。
当時はタイトルとか歌詞の意味を考えずに聞いていました。
英語のタイトルは、「Rainy Days And Mondays 」
・・・日本語タイトルは、そのままの和訳。
そして、歌詞は、誰かの訳によれば
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独り言を言っては、年をとったなと思ったり
全部やめちゃおうかなと思ったり
どれもこれもしっくりこなくて
うろうろしてみても
しかめっ面をすることしか何もやることがなくて
雨の日と月曜日はいつも気が滅入ってしまう
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なんだって。
何とも暗くて憂鬱な歌詞でしたね。
意味もわからず聴いてて良かった。
カレンが亡くなって40年くらい経った今でも
あのきれいな歌声は忘れない。
そんな雨降りの月曜、丸山公園に行くと、
花しょうぶが咲いていました。
紫陽花も一緒に。
たまった水に雨粒が落ちて輪を描きます。
6月は自分たちの季節だと言わんばかりに咲いています。
浦和レッズが強かった頃 [思い出]
納戸の片付けをしていたら、少し古い浦和レッズが優勝
した時の小さなポスターが出てきました。
廃棄する前に写真だけ撮っておこうと思い、
スキャナでとるには大きいので、デジカメで記録。
まずは、2004年の2ndステージ優勝時。
真ん中はワシントンだっけ?
この時エメはもういなかったのかなあ。
田中達也もいるし、啓太も暢久も三都主も、内館もか。
懐かしいなあ。
そして2006年のリーグ優勝。
ALEXと背中に書いてあるが、この頃ALEXと名乗ってたか
三都主といってたか?
写真には写ってないが、ポンテもいたなあ。
啓太だけが目立っているポスターだ。
今日もレッズは試合がありますが、
イマイチ応援にも力が入らない今日この頃です。
あれから26年・・ [思い出]
阪神淡路大震災から、今日で26年経ちました。
この前のような気もしますが、もう一世代前です。
1995年1月17日は、月曜日かと思っていたら
成人の日の振替休日が16日(月)で、17日は翌火曜でした。
というのも、休み明けに会社に行く前にテレビで報道してて、
関西で大地震があり、神戸で燃えている、というのを見て
出勤した記憶があるのです。
翌日だったか翌々日だったか、三菱電機の神戸に出張の
予定があったこともあり、よく覚えています。
当時はスマホもないので、会社に行ってから自宅に
電話して、出張で神戸に行くなんてとんでもない、
ということを理解しました。
その年4月には、神戸まで道路がつながってない大阪に転勤して、
報道されたNHK神戸放送局の壊れた建物に入ったりもしました。
あれから26年経ちましたが、東日本大震災はじめ日本には
地震、台風、大雨と災難はやむことがありません。
新型コロナも災難の一つかもしれません。
災難があっても、人間は生きていくしかありません。
さっき近くを散歩してきたら、この寒い中でも
紅梅がたくさん花をつけていました。
いずれ人類も新型コロナを乗り越えて、この花のように
春を迎えられるのではと思っています。
母の言葉 その3 [思い出]
母が亡くなって、はや10年経ちました。
晩年の母の認知症はかなり進んでいて、
会話もままならない状態が続いていました。
病院に入院したので、何回か面会に行ったのですが、
亡くなる3日ほど前の最後の面会に行った時のことです。
話しかけてもわかっているのかいないのか、という状態の時に、突然
母は私の手のひらを持って、自分の人差し指で何文字かの字を書きました。
わからないので、もう一度手のひらに書いてもらってもわからない。
仕方がないので、紙とボールペンを渡して、書いて!と言ったのですが、
書きたくなかったのか、紙に書くことはありませんでした。
亡くなったその後、ずっとそのことは忘れなくとも、
何を言いたかったのかと考えることは、しばらくありませんでした。
つい最近になって、そのことを想い出し、
書いた文字は、
「ありがとう」の5文字ではなかったのか、という思いにたどり着きました。
何でこんな簡単なことを気付かなかったのか・・。
ああその時に気付いていれば、という気持ちと、
気付いたとしても、その場で私が「ありがとう」って言えなかった、
のでは、という自責の念にとらわれてしまいます。
ただ、母もみんながいるところで言葉で言うのは恥ずかしいので、
指で書いたのかもしれない・・。
と思うと、
もう確認も感謝もできませんが、まあ似たもの母子なのかも。
母の言葉 その2 [思い出]
やはり小さかった頃、夕方遅くまで遊んでたりすると、
母に、「南京袋に入れられて、連れていかれるよ」というのがありました。
実際何と言ってたのかは忘れてしまいましたが、
口を布のようなものでふさがれて、眠らされ(クロロホルムのようなものか?)、
南京袋に入れられて、どこかに持っていかれるよ」
といったようなことだと記憶しています。
実家は海までは遠くはありませんが、「船に乗せられて連れていかれる」
という話までは聞かなかった、ような。
北朝鮮による拉致は1970年代から始まったと、外務省が
説明しているようなので、1950~1960年代には
拉致はまだなかったということなのでしょうか。
この外務省の地図によれば、拉致された場所は日本海側が
多いのですが、宮崎や鹿児島、そしてヨーロッパもあります。
最近のように、日本海側に北朝鮮から船でやってくる
というのではなく、昔は(今もかもしれないが)北朝鮮の
工作員やスパイは日本全国にいたということかもしれない。
なぜ母が、”拉致する現場”のような話をしていたのか、よくわかりません。
当時は田舎でも、子供に対する戒めとしてそのような話が
一般的に言われていたのか、新聞やラジオで言われていたのか。
それも、もう聞くことはできません。
母の言葉 その1 [思い出]
渡哲也さんが肺炎で亡くなったとの突然のニュースがありました。
また、最近はずっと新型コロナ肺炎の報道がしきりというのもあって
昔の母の言葉を思い出しました。
自分は小さい頃、よく風邪をひいてました。
風邪が少し良くなって布団から抜け出していたりすると
母に、「そんなことをしてると肺炎になるよ!」 と怒られました。
「風邪をこじらせると肺炎になるぞ」、ということだったのでしょうが、
当時は現在のように医学も発展しなかったので、
肺炎はこわい病気だったのでしょう。
自分が小さい頃、よく風邪をひいて、母に町のお医者さんに連れて
いってもらいました。母に背負われて行った消毒薬の匂いのするxxx醫院、
冬は火鉢しかない待合室、注射がいやで泣いたり、逃げ回ったこと、
薬は三角にただんだ袋に入れた苦い粉薬、そして帰りのバスに乗って
また酔ってしまったり、まあいい思い出はありません。
家に帰ると寝ているしかなく、水枕のゴムの匂い、
そして今の安倍のマスクと同じガーゼのマスクの匂いが今でも思い出されます。
母は息子が心配で、しょっちゅう連れてってくれました。
暑くても、雨が降っても、雪が積もった夜中でも
父と一緒に自転車に乗って。
母の子に対する愛情は、今も昔も変わりません・・。
その母も、10年前に誤嚥性肺炎で亡くなりました。
当時も今も、肺炎は命を落とすような怖い病気なのです。
今年はお墓参りに行けませんが、そんなことを想い出したお盆です。
昭和48年に旅する-1 [思い出]
昨年、神田の古本屋街を歩いて見つけた古い時刻表。
1973年版(昭和48年)です。
販売当時の定価は、250円となっていましたが、
値札には、¥2,500.
10倍の法外な値がついているが、つい買ってしまいました。
これを眺めていると、昭和48年に旅することができます。
まずは、自分が生まれた相馬駅や日立木駅がある常磐線の下り。
ここにある、「もりおか1号」で何回も盛岡に向かいました。
相馬出発は12:38、盛岡着は15:55 となっています。
3時間17分かかっています。
17:30相馬発「もりおか2号」もありました。
当時は学生でカネもなく、電車に乗ったら半年くらいは
戻らない、という感じでした。
この時刻表をみると、上野発の夜行普通列車 仙台行きは
既に廃止されていたようです。
自分が小学校の時には、上野を22時くらいだったかに出て、
早朝日立木駅に着くような、蒸気機関車に引かれた列車でした。
下の方に、丸森線が載っています。
当時の国鉄の路線で、今は阿武隈急行となり
福島までつながったが、昨年の大雨でまだ一部不通のようです。
古い時刻表を見てると、過去にタイムスリップしたような感じになります。
国立天文台での仕事 [思い出]
先日、海部宣男さんが亡くなられた、と新聞に載っていました。
海部さんといえば、しばらく前に私は国立天文台の方と一緒に
仕事をする機会があり、そのときの国立天文台長でした。
海部元総理とは従弟らしい。
とある電波天文のプロジェクトの完成祝いによばれて、
感謝状をいただいてきました。
この感謝状は、当時私が勤めていた会社の社名が変わる際に
貰い手がなかったので、私が拝受していたものです。
これは野辺山天文台の案件でした。
その後、別なプロジェクトでも同様に電波天文の研究に使う
サンプラ(高速ADコンバータ)を提供することになりました。
この写真は水沢天文台に新設したそのVERAプロジェクトの
パラボラアンテナです。ちょうど桜の咲く季節でした。
サンプラはこのアンテナの後ろにある機械室の中に設置されました。
その後このVERAプロジェクトは、サンプラを別なものに変えて
現在でも運用しているようです。
VERAは、水沢と鹿児島、小笠原、石垣島の4か所にアンテナを設置し、
それらのデータの相関を計算して、それらが大きなアンテナを
構成してるかのようなデータが得られる、とかいう話だったと思います。
その後、チリの高地での国際協力プロジェクトのアルマを経て、
世界中の数か所のアンテナで構成された今回の望遠鏡で
先日発表されたブラックホールの撮影に成功したのでしょうか。
私はよくわかりませんが、VERAでの日本列島サイズの望遠鏡が
地球サイズになって今回の発見につながった、・・らしい??。
このブラックホールの話でテレビに出ていた本間希樹さんにも
20年くらい前に、三鷹で会っていたような気がします。
その頃は、K教授とK教授の二人が引っ張っていましたが、
本間さんも含めて東大卒がゴロゴロいた世界でした。
個性や風貌が特徴的な先生が多くて、今でも、三鷹や
水沢、野辺山の天文台ににいらした先生たちのことは
忘れようもありません。