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露伴と二本松 [思い出]

今朝の朝日新聞の土曜版に、みちのものがたり として
「幸田露伴の突貫の道」福島県二本松市
というのが載っていました。

下の写真の明るい道路は、二本松市の亀谷地区から
山の裏側の竹田地区につながる道路なのです。
二本松.jpg

今から40年ちょっと前に1年だけ住んでた二本松市の亀谷。
当時住んでいたアパートはとうに無くなっているはず。

新聞に一緒に載っていた地図。
二本松2.JPG

この地図の、「亀谷」の亀の左下あたりに住んでいました。
当時は、アパートの前が二本松警察署だったと記憶して
いるのですが、現在は移転しているようです。
アパートの窓を開けると、警察署のトイレが見え、
立って用をたしている警察官と目があったものでした。

霞が城には何回か行ったし、鬼婆伝説で有名な安達ケ原には行ったが、
露伴の歌碑は知らなかったし、智恵子記念館も行ってない。

露伴という名前は、露伴が余市から東京に行く途中に
二本松で野宿して、「露を友にした」からとって
それ以降字として使っているとのことです。
露伴は、余市の電信所の職場を放棄して、実家のある東京に
向かったというらしいが、結構いい加減な人だったのかもしれない。
啄木だって一般に知られていない裏の顔があるように、
名声を得た露伴にもそういう一面があったのかも・・。


2018-06-02 16:07  nice!(0)  コメント(0) 

ああ、熊本城 [思い出]

地震で熊本が大変なことになっています。

また昨日から震源が大分寄りになってきて、
私の友達がいる湯布院でも大きな揺れに襲われ、とても心配しています。
手伝いにも行けないし、ただただ心配することしかできません。
早く地震がおさまり、インフラが復旧し、復興することを祈っています。

地震後、テレビでは熊本城を撮影したのがよく出てきます。
屋根瓦や鯱がなくなった天守閣、崩れた石垣など。

これは何年か前に行った時の熊本城。
熊本城.jpg

とてもきれいです。
少し前に放送していたブラタモリでやっていた、外に突き出た厠は
左の天守の右下に見える部分だったような気がしますが・・。
突き出た厠でも、汚物が下に落下するわけではありません、よ。
(ブラタモリを見てない方への説明です)

横に回ると、有名な武者返しと呼ばれる、
上にいくに従って急勾配になっている石垣。
武者返し.jpg

これも清正が、南にいる島津を恐れて作ったのだろうか。

地震で瓦とともに落ちてしまった鯱が、天守閣の上に鎮座していました。
鯱.jpg

ヒマなので、追加します。
昨日NHKで、14日夜の地震がM(マグニチュード)6.5で、
16日の地震がM7.3で阪神淡路地震相当で、16倍違うと言っていました。
前にもブログに書きましたが、地震のエネルギーEとマグニチュードMは
以下の式によって計算されます。

Log10E=4.8+1.5xM

Logの後の10は小さく書く常用対数です。
計算すると、M6.5では、
E=3.55x10^14
M7.3では、
E=5.62x10^15
10^14は、10の14乗で、100,000,000,000,000
10^15は、10の15乗で、1000,000,000,000,000
大きさの比は、56.2/3.55=15.8となります。
従って、4/14よりも4/16の地震の方が
15.8倍のエネルギー分に相当する断層が動いたということになります。


今回も、「80年生きてきたけどこんなのは初めてだ」と言っていた
年寄りがいたが、災害があるといつも出てくるコメントです。

熊本城は築城400年かもしれないが、自然現象である地震は
1000年や1万年単位やそれ以上で動いたりするのです。

「阪神淡路地区は、先の震災でエネルギーが放出したので
あと2000年は大丈夫」と言っていたコメンテータがいました。
これもどうかなとは思うが、2000年も生きる人はいないし、
検証や批判できる人もいないから、言ったもの勝ちか?

やれやれ、自然にはかなわない。



盛岡と啄木、今昔ものがたり [思い出]

年賀状を見ていたら、盛岡にいた時の友達からのがあり、
盛岡を想い出してしまいました。
40年前から保存していたパンフレットを探し出したら、
それに写っている場所をここ数年で訪問していることがわかりました。
啄木にちなんだスポットばかりですが、
その40年のビフォア、アフターを。

初めに、盛岡駅前にある啄木の歌碑。
パンフレットにあった40年前のもの。
駅前歌碑.JPG

そして最近の写真。
最近の駅前歌碑.JPG

以前は盛岡駅(線路)に並行してあったような気がします?が、
現在は線路に垂直方向に建っています。


そして盛岡市内には、啄木が新婚時代にちょっとだけ暮らした家があります。

まず、パンフレットにあった40年前。
啄木新婚の家.JPG

そして現在は、
最近の啄木新婚の家.JPG

屋根は葺き替えられ、少し外観の風情が違いますが
家の中は昔のままのかび臭い部屋でした。


盛岡の隣の渋民に行くと、渋民尋常小学校。
渋民小学校.JPG

現在はこんな立派な建物です。
最近の渋民小学校.JPG
啄木が通った学校で、自身が代用教員もしていたところです。


で、近くには歌碑があり、岩手山が見えます。
啄木碑.JPG

現在の写真はこれですが、違う台座に鎮座しています。
渋民歌碑.JPG

最後に、40年前の啄木記念館。
啄木記念館.JPG

最近の記念館もいつ建て替えられたのかわからないが古くなっていました。
最近の啄木記念館.JPG

ああ、盛岡はいいところ・・・、
なんていつまでも感傷に浸っていられない。
正月休みも終わり、明日からまた仕事だ。
頑張ろう!!



7月4日は独立記念日 [思い出]

7月4日はアメリカの独立記念日でした。
そのアメリカの大きさを初めて実感したのは1981年の夏でした。

行ったオレゴンは雄大で、少し郊外に車を走らせると山と森林が
どこまでも続きます。
MT. HOOD.JPG

当時は日米の技術レベル差は大きく、技術の高さや合理性に驚いたものです。
これはブラウン管(CRT)工場です。
CRT.JPG

今はなくなってしまったテレビのブラウン管のようなものです。
当時はこのブラウン管をはじめ、アナログ技術の日米格差は大きかったのです。


デジタル化されてしまった現在、家電製品はどこでも作れますが、
アナログ技術は簡単にマネできません。
今は最終製品こそ中国や東南アジアでの製造が多くなっていますが、
それらの国に日本は部品や材料をたくさん輸出しています。
これからの日本は、炭素繊維に代表されるような材料や化学製品の
分野に力を入れていけば、世界をリードできるはずです。[ひらめき]

独立記念日とは関係ない話になってしまいましたが、
1981年8月に行った時に自宅に招待してくれたTaylorさんの家族。
お世話になりました。
夜.JPG



父の帽子 [思い出]

この6月に父と母の三回忌を行った時に、実家から出てきた父の帽子。

帽子.JPG

国鉄に勤めていたので帽子は当然持っていたのだろうが、
父の国鉄の帽子姿の記憶は私にはない。
改札とか車掌とかの仕事であったら、当然かぶっていたのだろうが、
保線とかの業務だったからなのか、記憶にもないし写真もない。


この帽子の内側には父の名前のほか、昭和41年に貸与されたこと、
日本毛織が昭和40年に作ったと書いてあるタグがついていました。
まあ、貸与品ですから本来は返却すべきものだったのでしょうが、
当時は親方日の丸のせいなのか、そこらがいい加減で
実家の戸棚にしまいこんであったようです。
モノがいいからなのか、ほとんどかぶってないからなのかは
わかりませんが、型崩れもせず、しっかりとした状態で残っていました。


貸与されたのは昭和41年となってましたので、1966年ということになります。
当時、私は中学生でした。
確かその直後、常磐線も全線電化され、蒸気機関車がなくなったのです。
蒸気機関車が走っていた時代には、仕事から父が帰ってくると
通勤で乗っていた蒸気機関車のススの匂いがしたものです。
今となっては懐かしい、40数年前の思い出です。



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